INICIAR SESIÓN第百三十二話 廓《くるわ》 “カンカンッ カンカンッ ” 長屋に金づちの音が響く。 「いよいよ完成だな…… 頼んだぞ」 岡田が梅乃の頭を撫でる。 「先生、ありがとうございます…… この恩をどう返していけば良いか悩み中です」 梅乃が照れたように話すと 「もう十分に返してもらっているよ。 お前が医者になってくれた事だけで、俺は満足だよ」 岡田はニコニコしている。 師弟関係を持てたということだけで嬉しかったのだ。 「それに、赤岩先生に報告できた事が大きい。 二人で報告できて良かったよ」 「はい…… 私は二人の師に育てられましたから……」 「どうだ? これでいいか?」 大工が梅乃を呼ぶと 「はい、嬉しいです。 ありがとうございます。 あの…… 三原屋でお茶でも飲んでいってくださいね」 梅乃が頭を下げる。 この日、ついに梅乃の診療所が完成した。 『吉原診療所』である。 三原屋に住み着き、医者として活躍した赤岩や岡田。 その三代目となる梅乃が初めて個人で診療所を作ったのだ。 とは言っても、三原屋の倉庫を借りての開業となる。 この完成の瞬間、多くの人が診療所に駆けつけていた。 「おめでとう!」 拍手と歓声の中、梅乃は何度も頭を下げている。 「最初の患者はお婆から……」 梅乃は采の手を引き
第百三十一話 西天楼 明治十一年 二月。 世界では画期的な出来事があった。 エジソンが発明した蓄音機がニューヨークで世界最初の特許権を獲得し、 文明が一段と進歩したのである。 「よろしくお願いいたします……」 東郷が頭を下げると 「じゃ、頼んだよ。 先生……」 キセルを吹かせ、微笑んでいる女性がいる。 その女性は西天楼の遣り手の勢津だ。 西天楼は深川の大見世で、三原屋と同じく大見世の筆頭であった。 「これで吉原の客も深川に向くだろうね。 はっは…… 楽しみだね~」 勢津はキセルを吹かせながら笑っている。 「お婆…… どうして吉原が嫌いなの? わざわざ吉原で妓楼まで買収するなんて」 「おだまり…… これは深川の西天楼が日本一になる為にやっているんだ。 お前は看板娘としていればいいんだよ……」 勢津はニヤッと笑う。 話していたのは勢津の娘であり、看板娘として側近をしている古都である。 大部屋に行くと 「古都ちゃん…… 吉原に行っても警戒されているよ。 花菱楼だって摘発されたしさ……」 妓女たち数人が古都を囲む。 「すみません姐さん…… お婆が言うものですから……」 「そうだけんどさ…… 周りの見世も吉原にちょっかい掛けて花魁に叩かれたじゃないか…… それに、あの看板……」 妓女が説明すると、古都がキョトンとして 「あの看板……?」 「そうだよ……『無風流者は馬の糞である』とか書かれているんだよ。 もし、馬のふんでも投げられたら たまったものじゃないよ……」 吉原では梅乃の立てた看板を見て笑う者が出てきている。 吉原の秩序を乱す者には馬の糞でも投げてやろうと息を巻いている客や妓女が増えていっていた。 「そうですか…… どんな者が立てたか見てみたいですね……」 古都がニヤリと笑う。 その頃、吉原では梅乃が長屋の倉庫を改修していた。 「姐さん…… 下で騒がしなりますが気にしないでくださいね。 それと、窓を開けて換気しますから」 梅乃は病気で臥せっている妓女たちの診察をして窓を開ける。 「梅乃、すまないね……」 妓女が弱気になっていると 「何を言っているんですか。 また元気になって働きましょうね」 梅乃が微笑む。 (本当に、小さなお天道様だよ……) 倉庫から荷物を出して、埃だらけ
第 百三十話 ふりむいて 吉原 朝の六時、まだ空は暗かった。 「ま まだ二月ですもんね…… よく眠れましたか?」 東郷は三原屋に泊まっていた。 横でお世話をするのが古峰である。 古峰は指名も少なく、布団を別にして東郷と同じ部屋で眠っていた。 「わっ―っっ」 東郷が大声を上げると古峰が肩をすくめる。 「ど どうされました?」 「なんで俺は…… 酔って眠ってしまったのか……」 東郷が身体を起こすと 「お お手伝いします」 古峰は背中を押して、ゆっくり起こしていく。 「すまない……」 「い いえ…… これくらい」 古峰は恥ずかしそうにしている。 「それで、梅乃ちゃんは……?」 東郷がキョロキョロと部屋を見渡す。 「お お姉ちゃんは往診でございます。 ま まだ病人が心配なんでしょう……」 古峰が茶を淹れ、東郷に渡すと 「梅乃ちゃんこそ、大丈夫なのか? コロリが完全に治った訳じゃないだろうに……」 東郷は心配になり、着替えを探すと 「あ あの…… 洗濯をしていまして、外に干していますが……」 古峰が外を指さす。 「すまない…… それで乾いているかい? 梅乃ちゃんが心配なんだが……」 古峰は片山
第 百二十九話 ラムネ小松屋で感染した妓女たちが徐々に回復していく。 十二名が感染し、二名が亡くなるという結果にはなってしまったが「よかった……」 梅乃が安心していると「うげーっ―」 梅乃の嘔吐がはじまった。「梅乃ちゃん!」 小松崎の大声が響く。 (まさか?) 二階で声を聞いた葉蝉が階段から降りてくると、便所の前でグッタリしている梅乃がいた。「梅乃ちゃん――」 葉蝉が駆け寄ると 「ダメです!」 梅乃は朦朧とした状態で手を広げる。「梅乃ちゃん……」「感染《うつ》りますから……」 梅乃は手を前に出して葉蝉が来ないようにする。小松崎が三原屋に駆け込み「すみません…… 小松屋ですが――」 ドンドンと戸を叩く。「どうされました?」 対応するのは片山である。小松崎が梅乃が感染したことを話すと「なんてこと……」 部屋にいた采にまで話が聞こえてしまった。 小松崎が采の部屋に行き、頭を下げる。 「采さん、すまない…… 梅乃ちゃんが……」 「仕方ないよ。 これも梅乃が自ら医者になった結果だ。 ただ、親としては死なせたくないのが本音だ…… 感染したら外に出ていく訳にもいかないだろうから、少しの間は面倒見てくれないかい?」
第 百二十八話 意地という炎 小夜は翌日の昼近くに三原屋に戻ってきた。 「すみません……私、吉原から出たことがなくて、深川と言われても怖いというか……」 「そんなことないよ…… 大丈夫だから」 「でも、すみません……」 小夜はしきりに謝って花菱楼を出て来たという。 三原屋でも噂になり、表向きは小夜が潜入捜査をしたことになっている。 「小夜、よく花菱楼の悪事を暴いたね。 よくやったよ~」 妓女が小夜の頭を撫でると「へっ?」 小夜の目は点になってしまった。「小夜…… ちょっとおいで」 采が呼ぶと、肩を落として部屋に入っていく。「お婆、すみませんでした……」 「……」 采は黙って小夜を見つめる。「失礼しんす……」 梅乃と勝来が采の部屋に入ってくると「……」 小夜は、より一層、緊張感が高まっていのを感じる。「小夜、私から話していいかな……?」 梅乃が小夜を見ると「うん…… 話して」「前にも言ったけど、私が邪魔なら言ってね」「それで、どうするのよ?」 小夜が顔をあげると
第 百二十七話 暗闇の暗号「わかりました。 では、引手茶屋にご案内しましょう……」 梅乃が手を叩くと小夜が近づいてくる。「はい……」 小夜が頭を下げる。 この世界は遣り手の席の者が高い立場にあって、呼ばれた者は頭を下げて指示を待つことになっている。「……」 梅乃は黙って小夜を見る。 数秒が経った後「一花いるー?」 梅乃が声を上げると、一花が走ってくる。「……梅乃?」 小夜は、またもや呆然としてしまう。千に突き飛ばされ、古峰にも突き飛ばされる。 最後には梅乃にまでスルーされてしまったのだ。何も知らない小夜の目に涙が滲む。(何よ…… 私は加わってはいけないの? もしかして私が犯人扱いされているの?)小夜が悔しそうな顔をして外に飛び出していく。 客は小夜を気にしてか、何度も外を見ていた。「一花、お客様を千堂屋まで案内してくれる?」「わかりました」 客は八千代と一花を連れて引手茶屋に向かった。客が戻ってくると 「お二階へどうぞ。 酒宴で宜しいでしょうか?」 梅乃が訊くと 「そうね…… そんなに高い物じゃなくていいわ」 これに八千代が答えていく。(馴染みか…… 私が遣り手の席に多く座っていた頃は来ていない…… 最近の客か……) 梅乃は静かに帳簿を開いていく。
第十八話 春に舞う乙女たち 正月が過ぎ、厳しい寒さを抜けて春がやってきた。 この春を境に梅乃と小夜は十一歳となる。 誰も二人の誕生日を知らない訳で、春に拾った子だからと言うことらしい。 明治初期、少しずつ江戸の名残が薄くなっていった。 世間では、奉行から警察と呼ばれるようになり姿も変えている。 「梅乃~」 声を掛けてきたのは花緒である。 「花緒姐さん、おはようございます」 見世の前に出ていた梅乃を追いかけるように花緒も外に出てくる。花緒は、以前に勤めていた近藤屋から買い取った妓女である。四人の妓女が三原屋に来たが、花緒だけが梅乃と よく話す仲であった。他の妓女より
第十七話 年の瀬の騒ぎ「おはようございます」 梅乃と小夜は、早起きをして吉原を散歩していた。妓女たちは、朝の六時に客を見送る『後朝の別れ』を済ませてから寝床に入り、十時くらいまで仮眠に入る。梅乃と小夜は、子供なので夜の九時には寝ている。 朝の六時には起きて、妓女の見送りには息を潜めて邪魔をしないようにしているのだ。『後朝の別れ』が済むと、梅乃と小夜が慌てて小用に向かう。その後、時間潰しに吉原の中を散歩するのが日課だった。「もう寒いね……」「うん、早く帰ろう」 そう言って、急いで妓楼に戻る。「おはようございます。 潤さん」 梅乃と小夜は、毎朝 見世の前を掃除する片山に挨拶を
第十六話 足抜《あしぬけ》秋から冬へと向かう頃、寒さも一段と増してきていた。「梅乃、ちょっと来な」 見世の中から采が呼ぶ。「はい。 なんでしょうか?」 梅乃は、采の元に行くと「ちょっと、噂《うわさ》を拾ってきてくれないかい?」 噂を拾うとは、“吉原の中で噂を聞いてこい ” と言うことだ。大体は引手茶屋に行き、馴染みの主《あるじ》であれば噂や情報を提供してもらえるが、ここ最近では聞かなくなっていたようだ。「ウチの評判も気になるしね。 吉原細見の他にも情報がないかと思ってね~」 「わかりました」 梅乃は仲の町を歩き、聞き耳を立てていた。(確かに、子供になら口が滑ることもある
第十五話 恋慕《れんぼ》秋になり、人肌恋しい季節になってきた。これは現代でも変わらないことであろう。「なんか、このままも寂しいわよね……」 と、ある妓女が言う。「このままって?」 「この仕事をして、年季が明けても身請けもなく、最後は河岸見世とか……」多くの妓女の悩みでもある。妓女が身請けをされるのは、花魁クラスである。 稀に中級妓女でも身請けはあるが、ほんの一握りの話しである。この時代にマッチングアプリなんていうものは無く、心を満たされる妓女は、ほぼ存在しない。妓女を身請けするというのは、男性にとっても莫大な金が必要となる。ここで妓女を指名するのは金持ちでも妻帯者が多